壺切御剣

天皇家には「三種の神器」と呼ばれ、永く伝え守られてきたものがあると言われているのは有名な話なのではないでしょうか。その「三種の神器」の一つが、刀剣であり「草那芸之大刀」がそれに当たると言われているのも有名な話でしょう。この剣は「八思鏡」「八尺理勾玉」と共に、遥か昔より皇位継承の証となっているようです。

しかし、天皇家にはこの「三種の神器」のほかにも、皇太子が立太子された証として授けられる剣があると言われているようです。それは、名を「査切御剣」と言い、剣の授与は、かつて時の帝であった宇多天皇が敦仁親王の立太子の際、太政大臣であった藤原基経から献上された刀を授けたというのがはじまりであるとされており、この事から慣例化されたとされています。その後、この剣の継承なしに立太子することは不可能になったとされるほど重要な剣と言われているようです。この事実は、後一条天皇が敦明親王を皇太子に立てた際、左大臣であった藤原道長が、皇太子の母が藤原氏出身の女性ではないという理由から「壷切御剣」の献上を拒否したことにうかがえるようです。天皇の外戚として、権力の独占を企んでいた道長にとって、藤原氏と姻戚関係のない天皇の誕生は歓迎できなかったとされているようです。現存している「査切御剣」は実は2代目とされており、初代は、その昔、宮廷火災で失われたとされているようです。そのあと、藤原教通に献上されたものが、2代目として受け継がれていると言われています。この2代目も、火災による損傷などを受けながらも、現在にいたっているとされているが、当然公開厳禁の宝物とされているため、どういった形状なのかといった詳細などは不明であるようです。

姫鶴一文字

上杉景勝は叔父である軍神上杉謙信の養子として家督を継ぎ、豊臣秀吉の世には徳川家康や前田利家らと共に五大老と呼ばれた大大名で、初代米沢藩主です。
この景勝は、無類の愛刀家でしたが、高い鑑識眼を備え、自ら名刀を選ぶほどでした。
彼が残した『腰物目録』に、「上秘蔵」として記されているのが姫鶴一文字で、号の由来は明らかになっていないが、伝説として不思議な話が伝わっています。

刀の磨上げを命じられた研師が、「どうか私を切ることはおやめください」と美しい姫君が懇願するという夢を2晩続けて見ます。2日目に姫の名を聞くと、「ツルと申しまする」と答えて消えていきます。
夢が気になって研師は磨上げを中止し、この刀は姫鶴一文字と呼ばれるようになったといいます。
一文字は、豪華な作風で、有名な一文字派の作品を示します。
景勝公と同様に愛刀家であらせられた明治天皇もこの華やかな姫鶴一文字をいたくお気に召していたといいます。

著名な打刀の歴史とその作者

・南泉一文字(なんせんいちもんじ)
無銘で、作者は不明です。
足利将軍家が所蔵していたころ、研ぐために立てかけてあった刀に猫が触れてしまい、真っ二つに斬れたということから、こう呼ばれるようになりました。
鎬造りで庵棟、反りは浅く、小切先は猪首ごころとなる。
刃文は、大房の重花丁子乱れである。
重要文化財に指定されています。
徳川美術館に所蔵されています。

・五月雨江(さみだれごう)
郷義弘による打刀です。
五月雨の季節にこの刀が打たれ、まるで霧のように美しいことから、こう呼ばれるようになりました。
鎬造りで庵棟、浅い鳥居反り、中切先のフクラは枯れる。
刃文は、湾れに小乱れ交じりです。
重要文化財に指定されています。
徳川美術館に所蔵されています。

・村雲江(むらくもごう)
無銘ではあるが、郷義弘による打刀だと言われています。
この刀を豊臣秀吉に見せたところ、刀身の沸(にえ)がまるで湧き出る雲(群雲)のようだと言ったことから、こう呼ばれるようになりました。
鎬造りで庵棟、中反りやや高くつき、中鋒。
刃文は、直刃ごころに浅くのたれ、互の目交じり。
重要文化財に指定されています。
個人が所蔵しています。

・分部志津(わけべしづ)
無銘ではあるが、志津三郎兼氏による打刀だと言われています。
伊勢国奄芸郡上野(三重県津市)城主の分部光嘉が所持していたことから、こう呼ばれるようになりました。
鎬造りで庵棟、中鋒。
刃文は、大乱れ、互の目交じり。
重要文化財に指定されています。
徳川美術館に所蔵されています。

年紀が二月か八月の理由

現代の日本刀を作る刀工は、その日本刀を何月に作ったとしても「二月日」と「八月日」のどちらかを年紀として記しています。そして、日本刀の柄の中の形である茎には、前年の十一月や十二月に焼き入れをしたとしても、当然のように「二月日」という彫を入れるのです。では、なぜ「二月日」と「八月日」と記すのかということを考えていきます。まず、江戸時代の末期に活躍していたと考えられ、現代で一番人気のある名工がいます。その名工の日本刀には、ほとんどに「二月日」や「八月日」と記されています。その時代の名工がつくった日本刀にも、多少例外はありますが「二月吉祥日」や「八月吉祥日」のように二月と八月が記されています。また、それ以前の時代では、神社へ奉納するような日本刀には正式に作られた年月日にちが記されている場合があります。そのような特別な記念のために作られた日本刀以外の一般的なものは、二月と八月を記したものが多いと考えられています。また、それよりも前の時代では、作られた年月日が多く記されている日本刀でも、ほとんどが二月と八月で、どちらかというと八月が多いそうです。それ以前では、二月と八月の量の差は、ほとんどなくなります。そして、さらにそれよりも前では、二月と八月に関係なくさまざまな月の年紀が記されています。

現代の刀工は、限られた一部の鍛冶を除けば、そのほとんどが八月には刀を作っていないと考えられています。八月のような猛暑で、さらに熱のこもる鍛冶は、ほとんどの刀工が休んでいるのです。しかし、二月や八月なのには、昔に書かれたある日記に、七月も八月も五行思想で考えると、金に当てはまりとても縁起がいいので、その時期に始めるのが良いというような内容があり、そこから発展していったのではないかと思います。

 

豊臣秀吉と日本刀

豊臣秀吉は尾張図の農民の子として生まれたという。信長に仕え、台所などの管理監督の手腕に長けていたのを見出されて出世を重ね、最後には関白太政大臣にまで上り詰めた、 下克上の戦国時代を象徴する人気のある歴史上の人物である。秀吉はあらゆるものに対して貧欲で、日本刀の蒐集にも並々ならぬ意欲で取り組み、数々の名のある刀を召し上げ て一手に集めて愛蔵していた。秀吉自身は若い時から何度も戦場に出てはいたものの、とりたてて剣技に優れていたわけではなく、どちらかといえば頭脳と政治能力で成り上 がった人物として有名である。しかし天下統 一の望みを果たした後も、戦の道具で ある日本刀蒐集への意欲はますます旺盛になったと見られる。秀吉にとって数々の名将の手を経て伝来してきた名刀は、自らの権力を象徴し世に 誇示する道具であったと推測できます。