武士たち

武士たちが日本刀を帯刀する意味において、武士たちの政権が武力によるものであったところが大きいようなのです。武士たちが歴史のなかで政権を握るまでは、朝廷を中心とする政治のしくみが国の中心にありました。武士という存在は、朝廷や貴族たちに仕えるなかで戦闘を職業としていたようです。武士たちは武力を手にするなかで、荘園と呼ばれる田畑の開発をするための所有地の経営者となり地域においてその権力を誇示するまでになったようです。朝廷に仕えていた武士たちは、近衛府、兵衛府、衛門府、検非違使、滝口の武士などと呼ばれていたようです。貴族や皇族に仕えていた武士たちは侍(さむらい)と呼ばれていたようです。彼らは中央政権のもと都などにいたようですが、地方にいる武士たちは、押領使、追捕使などと呼ばれていたようです。

徳川秀忠の愛刀

徳川秀忠は長く平和がつづく江戸時代の基盤をつくったとして、その貢献が称えられております。大阪城に人質に出されていた秀忠の名は、元服の際、秀吉に基づくとも言われ、秀吉の正室ねねとも所縁が深いとされています。幼少期から豊臣家との関係性が深い秀忠が、大阪の陣にはどのような面持ちで出陣をしたか、その心中は想像するに絶するものがあります。大阪の陣にて陣頭指揮をとる秀忠が帯刀していたとされる日本刀が越中則重作であったと言われております。鎌倉時代の後半につくられたであろうとされている則重作の脇差は無銘とされ、このような無銘の刀剣を秀忠が大事な戦に所持していたことは、なんとも不思議な縁でもあるようです。さらに秀忠の愛刀として知られている「奈良屋貞宗(ならやさだむね)」も豊臣家に所縁が深いとされています。秀忠の刀剣選びを垣間見ておりますと、彼自身の立場や立ち位置が非常に複雑なものであったことが伺い知れるようです。

剣聖塚原卜伝

吉川朝孝は鹿島新当流を創り、名乗りを「塚原卜伝」とした。生涯において「真剣勝負19回、戦働き37回、一度も不覚を取らず矢傷6ヶ所のみ傷一つなし、立ち合いで敵を討ち取ること212人」との伝説が残っている。香取神道流の始祖飯篠家直は、下総国香取郡飯篠村の郷士出身である。

幼い頃から武術に優れていたらしい。ある日、従者が香取神宮の神井で馬を洗ったところ、突如として苦しみだし人馬ともに死んでしまった。家直は、香取神宮の主祭神、経津主大神のご真意と受け止め、千日千夜の大願を発起し修行に務めた。

すると、「汝、後に天下剣客の師とならん」との託宣と兵法神書一巻が降され、香取神道流を創設した。大和朝廷の蝦夷平定の北辺の守りの地、鹿島神宮、香取神宮から日本剣術の二大源流が生まれたことは、時代の必然であったのだろう。

鹿島新当流

奥州侵攻の最前線であった常陸国・下総国には、腕に自信がある強者が集結した。必然、剣術の鍛錬が日常になった。

鹿島神宮の社宝「鹿島の太刀」を古来より伝承してきたのは、吉川氏。吉川左京覚賢の次男、吉川朝孝も「鹿島の太刀」の伝承者であった。朝孝は塚原家に養子に入り、香取神道流を学んだ。

のちの剣聖塚原卜伝の誕生である。16歳で諸国修行に旅立ち、14年にわたる修行行脚で剣技は上達したが、死と隣合わせの暮らしの中で憔悴して鹿島に帰郷する。

鹿島神宮に千日間参籠し精神を鍛え直し、剣技のさらなる研鑽に努めた。鹿島大神より「心を新たにして事に当たれ」との御神示が下され、鹿島新当流を創始した。

「津田遠江長光」と「大般若長光」

「津田遠江長光(つだととうみながみつ)」は、徳川美術とされる国宝級の太刀であります。「大般若長光」と並ぶ、織田信長の愛刀とも言われておりますが、信長以前の所有者は不明であるともされているようです。

号の由来は、本能寺の変で信長を破った明智光秀が、本能寺から「津田遠江長光」を持ち出し、家臣であった「津田重久」におくったことであるとされているようです。

本能寺の変以降では明智光秀の死後、前田家に仕えることとなった津田重久から前田利長の手に渡り徳川家に献上されたなどといったルーツが語られています。

備前長船派の長光の大名物として「大般若長光」の号が語られることが目立つなかで、同じく時代の大きな変貌を知る刀剣であるようです。

伯耆国宗

国宗は、鎌倉末期、伯耆国で活躍した刀工である。備前長船の名工「備前三郎国宗」との混同を避けるため「伯耆国宗」と呼称される。師匠は、備前長船「備前三郎国宗」である。

腰反りの刀姿が、鎌倉時代末の様式を反映している。現存する太刀は数振り存在している。作風は、直刃に小乱交りの古風な刃文。やや肌立った板目の地鉄。「伯耆物」らしい刀剣である。

銘は、「国宗」とのみ刻み、長銘は確認されていない。代表作は、重要文化財指定「太刀 銘 国宗(伯耆)」これは、十二代彦根藩主井伊直亮の指料であった。当初は同名の「備前三郎国宗」の作とされていたが、特長から伯耆国宗作と断定された。

さらに、代表作としては、重要美術品「刀 銘 国宗(伯耆)」がある。この刀は、「山名家」から鳥取藩主「池田家」へと伝承された伯耆正宗の名品である。

「山名家」はその最盛期に天下六十余州のうち十一か国の守護職に任ぜられ「六分の一殿」と称され、応仁の乱では西軍の総大将に推戴されるほどの武家の名門であった。

切刃貞宗の形容

切刃貞宗について話をしていきたいと思う。刃長は、一尺五分、「切刃」の銘の由来は、造り込みが片切刃になっていることに由来する。

指し表は平造り、庵棟。素剣には梵字が印刻されている。裏は由来の片切刃造りで腰樋を掻く。理忠寿斎の手になる彫物。二重はばき、下貝金着、上貝無垢。地鉄は板目肌。

刃文はもと大五の目乱れで裏は飛焼きがある。茎には、大坂城で焼かれた際の熱で溶けた金が付着している。

茎の形は剣形、目釘孔は4つ。大坂城落城の後、再刃したため、彎れ風の直刃に焼き直された。拵えは、白鞘で「切刃貞宗 長尺五寸 代不知 表棒樋裏剱梵字」の墨書がある。

現在は、松平頼重の子孫松平頼明氏の所有で香川県立ミュージアムが保護管理をおこなっている。

安定した室町時代から戦乱の世へ

室町時代の前半は、足利将軍家による政権が安定した時代でもありました。1467年、応仁の乱後は、室町幕府の衰退がみられ、日本全国各地で守護大名らの動きが活発化した戦乱の時代に突入することになります。世の中が戦乱ムードになるにつれ、日本刀の需要も増していったと言われております。日本全国各地にみられる有名刀工らも出現しはじめ、これまでの流派などの特色が薄れる中なかで各刀工らのオリジナル作品とも言えるような名刀も登場しはじめたようです。また、これまでも数多くの名刀が作られた備前においては、日本刀作りが組織的に行われるようになるにつれ、日本刀の大量生産が可能ともなったようです。これまで代表的な刀工が集中していた備前の他、美濃、伊勢、駿河など東海地方に数多くの刀工の存在がみられたようです。合戦の場が東海地域に集中していたこともその理由としてあげられているようです。彼らはそれぞれ戦国武将たちのお抱え刀工として注目を浴びるようになったそうです。

当たり前の風景のなかの日本人

皆さんは日本国内の公道がどうして「左側通行」であるのかをご存知でいらっしゃいますか。その歴史をさかのぼると、日本人が左側通行を好んだのは、日本刀を持った武士たちが日本刀を腰から下げていたことが要因であるなどとも言われているようです。

右利きである人が腰にある日本刀を抜くには、左側に刀を収める必要がありますので、武士たちが街中を歩く度に刀と刀がぶつかり合わないように、人々が左側通行をルールとすることによって、街中の人々の通行がスムーズに行われていたようなのです。

物事には何事にも理由や歴史があるとは言われますが、現代人の多くが日本刀の存在から遠のいてしまっておりますので、実際にどうして街中の交通ルールが左側通行であるのかというような質問は、教習所でそのように交通ルールとして学んだからなどと答える若者も多いとは思われますが、そこには日本人のルーツや深い歴史が潜んでいるのです。

皆さんが当たり前のようにある日常の風景に、日本人のルーツが隠されているかもしれませんよ。

中古品の刀剣を手に入れたい

中古品であろうとなかろうと、日本刀をコレクションする前に知っていただきたいことの一つに、刀剣は湿気に弱く、拵などの装飾は日光の日差しに弱いという点であります。

数百万円もするほどの刀剣のコレクションを手に入れたからといって、保管場所が適していなければせっかくのコレクションが台無しになってしまうこともあるでしょう。是非ともご購入前にお考え頂きたいのは、まずコレクションする条件の置き場所であります。

一般的には、1メートル前後の置き場所が必要となってくるのではないでしょうか。現代家屋の中で床の間を探すのは大変難しいかもしれませんが、湿気が少なく日光が当たらない場所をまずは、ご自宅の中で吟味する必要があります。刀剣は、骨董市などの掘り出し物が少ないと言われています。

楽屋価値を決めるのが作者であったり、傷やメンテナンスによるところが大きいよすです。作者によってほぼランクや価値が決まってしまうのが刀剣の見極めに繋がってくるようです。