徳川秀忠の愛刀

徳川秀忠は長く平和がつづく江戸時代の基盤をつくったとして、その貢献が称えられております。大阪城に人質に出されていた秀忠の名は、元服の際、秀吉に基づくとも言われ、秀吉の正室ねねとも所縁が深いとされています。幼少期から豊臣家との関係性が深い秀忠が、大阪の陣にはどのような面持ちで出陣をしたか、その心中は想像するに絶するものがあります。大阪の陣にて陣頭指揮をとる秀忠が帯刀していたとされる日本刀が越中則重作であったと言われております。鎌倉時代の後半につくられたであろうとされている則重作の脇差は無銘とされ、このような無銘の刀剣を秀忠が大事な戦に所持していたことは、なんとも不思議な縁でもあるようです。さらに秀忠の愛刀として知られている「奈良屋貞宗(ならやさだむね)」も豊臣家に所縁が深いとされています。秀忠の刀剣選びを垣間見ておりますと、彼自身の立場や立ち位置が非常に複雑なものであったことが伺い知れるようです。