日本刀は、ただの興味本位で眺めても楽しいものですが、ある程度一般的な鑑賞方法を身につけると、より楽しく鑑賞できます。
まず、日本刀を鑑賞する一番の目的は、その静謐な美しさでしょう。そこには武器としての鋭さが存在しており、生と死を何度も見てきたのだ、という恐ろしさが含まれています。
観賞の際に知っておく知識は大きく分けて3つあり、それは、日本刀の姿と、刃文と、地鉄です。
日本刀の姿は、時代や作り手によって大きく異なります。時代に応じてどのように変化してきたのかの知識があると、より楽しめるでしょう。
刃文は、刀匠の個性が非常に大きく発揮される部分です。一つとして同じものはなく、見て飽きることがありません。
地鉄は、主に製鉄技術によって大きく異なります。その時代性が現れてくるため、時代ごとの製鉄についての知識があると、非常に楽しめます。
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刀剣の手入れ
刀剣は非常に大切なものです。刀鍛冶の方が一生懸命作り上げ、それが現代まで大事に保管されてきたのですから。しかし、そのような歴史ある刀剣でも、手入れを怠ればすぐに錆び、価値を失ってしまいます。そのようなことにならないように、この文章では、刀剣の手入れ方法について解説していきます。
まず、基本ですが、刀剣は鉄でできています。そのため、水に濡れたままにしておくと錆びます。水がついてしまったらすぐに拭き取り、水気のある場所には置かないようにしましょう。
また、刀剣を抜くときは、必ず刃を上にして、左右に動かすことのないように、ゆっくりと抜きます。急いで抜くと、刀剣が壊れたり、自分が怪我をしたりする可能性があるため気をつけましょう。
刀剣を手入れする際は、目釘を抜く、鞘から刀剣を抜く、柄を外す、古い油を拭き取る、打ち粉で残った油をなくす、新しい油をぬる、という手順を行います。その過程で怪我をしないように気をつけましょう。
日本刀における刃とは
日本刀は世界一切れ味が良いとされる刀剣類ですが、刀と刃の違いを正しく知らないという方は多いです。刃とは研ぎの入った刃の部分のことを指し、対象を切断する機能のついた面で日本刀にとって肝心要の部分でもあります。語源には焼き刃のイ音便形であり、本来は焼き入れをした日本刀の刃や焼き入れで生じた刃文のことを指し、これが訛って「やいば」と発音されるようになりました。
2つの違いは前者は日本刀を示す言葉や総称であり、後者は部分を指す意味であり、漢字の刀に「丶」を付け足した漢字を使用することによって、刀の一部分を示す文字となった由来があります。そして切れ味の良さを作り上げる作刀技術は、主に折り返し鍛錬と造込み、反りの3項目で成り立ち、刀工の技量によって見た目の良さに加えて、切れ味や折れにくい仕上がりになります。
刀剣の鋒/切先の構造について解説
刀剣の鋒/切先は、刀身の先端部分にあたり刀身の中でも一番美しい部分だと言われています。刀剣の鋒/切先は、先端が尖っている構造になっていて、戦の際に的を突くことに使われるので、武器としての戦闘能力の高さを左右させる部分になります。刀剣の鋒/切先はいくつかの部位にわけることができ構造も異なります。鋒・切先のふくらは、刃先部が曲線状になっている構造になり、しっかりとしたふくらみがある刀は評価が高く、刃こぼれを起こした際に悪い研ぎ方で刀を研いでしまうと曲線が失われることになり評価が落ちる傾向にあります。鋒・切先の帽子の刃文の部分の構造は、刀工や流派によって違いがあり、焼き入れの仕方によって紋様がさまざまになります。鋒・切先の帽子は、重ねが薄く焼き入れの難易度が高く、均等に火入れをするには高い技術が必要になります。
樋と二筋樋を読めますか
タイトルにあります、「樋」と「二筋樋」の読み方をご存知でしょうか。それぞれ「樋(ひ)」と「二筋樋(ふたすじひ)」と読むのですが、どちらも日本刀の刀身に掘られる細長い溝のことを意味し「二筋樋」は「樋」の種類の1つになります。イメージとしましては、戦国武将の持つ長い持ち手の槍(やり)の先についている銀色の相手を突く金属の部分の中央に溝が入っているのと同様に、刀の刃の波紋(切れる刃先)の上側と棟(むね)と呼ばれる背側の間に同じ太さの溝が2本平行にあると考えていただきたいと思います。
特に樋の中でも二筋樋と言えば、「刀・無銘・貞宗(かたな・むめい・さだむね)」と言われており、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて相模国(神奈川県)の刀工「貞宗」によって作られたことで有名です。
名刀大垣正宗とはどのようなものか
大垣正宗は、幕末の戊辰戦争の際に当時の米沢藩主であった上杉茂憲が帯刀し、その後名刀と言われたものです。もともとは鎌倉時代に制作されたものと言われていますが、その詳細は不明で、江戸時代以前は大垣藩の藩主を務めた戸田家に伝来したものとなっています。
江戸時代になってからは、大垣藩の初代藩主戸田氏鉄が2代将軍秀忠に献上し、その後秀忠は米沢藩2代藩主の上杉定勝にその元服を祝して譲り渡しました。そのため幕末までは上杉家の所有となり、戊辰戦争で活躍したものとなっています。
大垣正宗は名刀政宗の流れをくむものとなっており、その大きな刀身と粗利の少ない美しい形状は多くの人を魅了するものとなっているのが特徴です。しかし、作者不詳であることから、鎌倉時代の戦乱をくりぬけ現在にまでその美しさを保っている店が高く評価されています。
孝明天皇にとっての刀の存在
現在では日本刀はその美しさを競うものと見られることも多いのですが、戦国時代は重要な武器でもあり武士の魂とも言われるものでした。しかし多くの貴族や天皇家にとっては現在と同じように様々な節目節目で作るものであり、芸術品や記念品の意味合いが高かったのが実態です。その中で孝明天皇は伝正宗という名刀を非常に大切にしており、まるで武士のように心を寄せていたことがわかっています。
孝明天皇は日本が米国から開国を迫られ、また様々な討伐運動のきっかけとなった戦乱が激しい時期に天皇の座についた人物で、歴史の転換期の中で重要な役割を担っていた人物です。当時の幕府の政治に疑問を持ちながら、それでも米国の要求に応じて開国をすることを拒み、日本国内で幕府と天皇家が共存する道を模索した人物となっており、その孝明天皇が崩御したことが幕府の終焉を加速したとも言われています。
「圧切長谷部(へしきりはせべ)」
「圧切長谷部(へしきりはせべ)」の名を耳にしたことのある方も多いのではないでしょうか。圧切長谷部は、織田信長にまつわる有名な逸話をもつ名刀とされています。作者は国重(くにしげ)。この名刀が織田信長から福岡藩主の黒田家に渡ったエピソードに関しては諸説あるようですが、織田信長と黒田官兵衛の関係性を結び付ける名刀でもあります。「圧切(へしきり)」の名がつけられた所以は、織田信長の怒りをかってしまった茶坊主が、台所に逃げ込み棚の下に潜り込んだ際に、刀を振り回すスペースがなかったことから、信長が刀をそのまま棚のすき間に差し込んで「圧切った」ことからそう呼ばれるようになったようです。日本刀についての知識をお持ちの方であれば、日本刀は本来、差し切るものではなく引き切るものであることをご承知でありましょう。
武士たち
武士たちが日本刀を帯刀する意味において、武士たちの政権が武力によるものであったところが大きいようなのです。武士たちが歴史のなかで政権を握るまでは、朝廷を中心とする政治のしくみが国の中心にありました。武士という存在は、朝廷や貴族たちに仕えるなかで戦闘を職業としていたようです。武士たちは武力を手にするなかで、荘園と呼ばれる田畑の開発をするための所有地の経営者となり地域においてその権力を誇示するまでになったようです。朝廷に仕えていた武士たちは、近衛府、兵衛府、衛門府、検非違使、滝口の武士などと呼ばれていたようです。貴族や皇族に仕えていた武士たちは侍(さむらい)と呼ばれていたようです。彼らは中央政権のもと都などにいたようですが、地方にいる武士たちは、押領使、追捕使などと呼ばれていたようです。
徳川秀忠の愛刀
徳川秀忠は長く平和がつづく江戸時代の基盤をつくったとして、その貢献が称えられております。大阪城に人質に出されていた秀忠の名は、元服の際、秀吉に基づくとも言われ、秀吉の正室ねねとも所縁が深いとされています。幼少期から豊臣家との関係性が深い秀忠が、大阪の陣にはどのような面持ちで出陣をしたか、その心中は想像するに絶するものがあります。大阪の陣にて陣頭指揮をとる秀忠が帯刀していたとされる日本刀が越中則重作であったと言われております。鎌倉時代の後半につくられたであろうとされている則重作の脇差は無銘とされ、このような無銘の刀剣を秀忠が大事な戦に所持していたことは、なんとも不思議な縁でもあるようです。さらに秀忠の愛刀として知られている「奈良屋貞宗(ならやさだむね)」も豊臣家に所縁が深いとされています。秀忠の刀剣選びを垣間見ておりますと、彼自身の立場や立ち位置が非常に複雑なものであったことが伺い知れるようです。